私が中学生くらいの頃に夢描いていた楽園

それは木々に囲まれたちいさな池かもしれない。
私は池の方へゆっくり歩いていった。池の水は透き通っていて、歩き疲れた私はその水で喉の渇きをいやしたいと思った。膝をついて前かがみになって池の水を両手ですくい、こぼれてしまわないうちに口を近づけて水を飲む。
喉の渇きをいやした私は池の底まで見えることに気が付く。池の中の世界が覗けるくらいきれいな水。
色々な魚が泳いでいる。大きな魚たちは堂々としている。なにか考え事をしているようにも見えてゆっくりとした泳ぎだ。大きくもなければ小さくもない魚たちは、なにか探しものであるのか池の中を忙しく泳いでいる。小さな魚たちは群れになっている。仲間を信じているから一緒に泳いでいるのかもしれない。
水の底の方に目を向けるとよたよた歩く蟹がいた。その蟹は自分の家に帰ろうとしているかもしれない。お母さんやお父さんが待っている家に。水の底には蟹だけではなく水草も生えている。水の流れで右に左に揺れている。そうやって水の流れに身を任せている。
水の中の世界を覗くことをやめてふと顔をあげると、池のまんなかあたりでカモが水の上をゆっくりと進んでいた。どこかのんびりしている。僕はお日様の光を浴びながら透き通った水の上にいることが幸せだ、そんなのんびりとした様子。でもカモもお腹がすくから魚を食べる。のんびりしているように見えても魚の動きを注意深く観察しているのかもしれない。
私は池を囲む木々のほうに目を向ける。風が吹くたびに淡い緑がざわめくように揺れる。そういう揺れる淡い緑が池を囲んでいる。
私は近づいて行って一本の木の前に立つ。その一本の木を眺めていると不思議な気持ちになった。木の皮はなにかの模様のように見える。手で触れてみると、その皮の内側にあるもの守っていて、それはとても頑丈だけでも、やっぱり皮で覆わなければいけない弱さがあるのかもしれない。そうして少し上を見上げると、揺れる淡い緑と枝。その枝を私が通ってきた道のように太い枝から細い枝へとのびている。もっと近づけば葉っぱの一枚一枚を見ることができるかもしれない。でも木の上にのぼって、葉っぱ一枚一枚を見る必要はないのかもしれない。その葉っぱをちぎって自分のものにするより、そっとしておいたほうがいいかもしれない。ありのままだからいいのだと思う。そこで私がなにかするとよさが消えていってしまうような気がする。
私は木々に囲まれた小さな池の入口の方に戻った。そこで考える。木々に囲まれた小さな池がどのようにしてそうなったかを。
ここは大きな森の中にあって、そこで何かがおきて、小さいけれど底の深い穴できたのかもしれない。穴の周りを少し離れたところにいる木々たちずいぶん昔から森の人として生きていたのだと思う。その穴が池になるまではとても長い時間が必要で、穴の中に雨水がたまっていったので池になったわけで。お日様が森を照らす毎日の中で時々、雲が空を覆って雨が降る。雨水は少しずつ穴の底から上へ上と昇っていく。長い時間の後、穴だったものが池になった。カモは遠い場所から長い旅をしている時にどこか休む場所はないかと羽をはばたかせながら空の上から下の様子を眺めていた。そうして池があることに気付き、そこで少し休もうと思った。池より少し離れた上空からななめに下っていき、水しぶきをたてながら池の水面をなでるようにして降り立った。そうして水の中の世界をみて、ここにとどまる事も悪くないと思い、魚の様子を注意深く眺めながらゆっくり水の上を進みはじめる。

こんな光景を想像したのはいつ頃だったかはよく覚えていない。私はそこで小さな丸太小屋みたいな家を作って暮らせればいいなと思った。今はちょっと違う。この光景を想像したときから違うなとは思っていたともう。私がなにかするとよさが消えるなら、私はただぼんやりと眺めているだけだ。それは楽しくないと思う。

そんな美しい世界にいたらじぶんの醜さが辛くなってししまうかもしれないし